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スクリーンを横から見てみる

映画と、映画以外の全て、の2つについて。twitterは@cathexis_impish

『晩春』ホームドラマの皮を被った恐怖映画あるいは小津と原と小室と華原と。

映画

5月に入りました。GWも後半。ちょうど今頃、5月あたまから立夏の前日までを晩春と言うそうです。非常に短い期間、およそ6日間、儚い。

原節子小津安二郎作品に出演した数、6本と同じです。

 

その1本目、名作『晩春』。

その後の小津作品に幾度となく登場する娘の結婚をめぐるホームドラマのスタイルを決定づけた作品、と冠がつくことが多いですが、久しぶりに見返したところ、日常どころか非日常、異世界、どこかおかしい、恐ろしい作品だと感じました。独特の違和感がある、観ていて不安な気持ちにさせられたのです。日常の皮を被った非日常を淡々と綴る『晩春』。

 

しかし、いったい何が不安にさせるのか?

ひとつには原節子の表情。『晩春』の原節子は過剰なまでの笑顔と怒りの表情と、たった2つの顔だけで演じきっています。

過剰な笑顔は無表情と一緒です。まるで能面のよう。「不潔よ」と叔父を非難するとき、笑顔の内側にある拒絶が透けて見えます。中盤以降の般若の如き表情は、女の嫉妬。あの大きな目に宿った狂気の刃物で笠智衆に、観客に襲いかかってくるようです。

頂点は能の観劇で見せる一等の作り笑い。この瞬間のために2つの面しか用いなかったのでしょうか。

 

ふたつには方向感覚がなくなる不安。

小津安二郎の代名詞「ローポジションの切り返しショット」。相手の姿が手前に入らない、視線が交わらないのが特徴です。そのため人物の位置関係が分からなくなり混乱します。特に服部との七里ヶ浜へのサイクリング。原のアップは進行方向が画面の右へ、切り返した服部のアップは画面の左へ。ロングショットも後ろからとらえたものと、手前からとらえたものが混在していて進むべき方向を意図的に分からなくしているようなつなぎ。原のアップで髪をかき上げる仕草が2回出てきますが、最初は左手、次は右手。この仕草のせいで混乱している気がします。

どうも芯を食った文章になっていませんね。コイツ何言ってるんだ?と、読んでくださっているみなさんが混乱しているのではないかと心配です。

知らない土地で行き先を見失ったような不安。まさに、

「こっちかい、海?」

「いや、こっちだ」

八幡様はこっちだね」

「いや、こっちだ」

「東京はどっちだい?」

「東京はこっちだよ」

の心境です。

 

みっつには時間が正常に流れていない不安。

小津映画もうひとつの代名詞「セリフの反復」。この『晩春』が他より抜きん出て多いのではないでしょうか。

「そうかい?」「そうよ、きっとそうよ」

「決めたのね、もうお決めになったのね」

オウム返しの会話が交わされる時、まるで傷ついたレコードが何度も同じフレーズを再生する感じ。穏やかであるはずの日常の針が飛んで数秒前からやり直しさせられているような錯覚を覚え恐怖にかられます。

 

最後には小津安二郎監督が作品に込めた私的な想い。

実際のところどうだったのか知る由もないですが、世間で言われているように小津安二郎原節子が互いに強く惹かれあっていたことが事実なら『晩春』の撮影より前からそうだったのでしょう。プラトニックであったならば面と向かって自身の愛情をはっきりと伝えたことはなかったかもしれません。

京都の夜、娘・紀子の父・周吉に対する想い。「父」を「小津」に置き換えてみてください。

「私、このままお父さんといたいの。こうしてお父さんと一緒にいたいの。それだけで私、楽しいの。お父さんが好きなの」

男がセリフを考え、女がセリフを口にする。

かたくなに結婚を固辞する紀子の姿は、原節子が伝説となったいま、私生活と重なってしまいました。この事実も相まって、監督が周吉に自分を投影して原に語らせたのではないかと勘ぐってしまいます。執拗に反復されていたセリフ、この場面の原節子には一度も現れません。

ふたりは純愛だったといわれていますが、『晩春』の父娘も純愛です。

 

それから約50年後に、似たようなことをした男女がいました。

この手のことをしてきた男女はたくさんいるのでしょうが、男性同士、女性同士、それぞれ同じ漢字を一文字共通しているところに、なにかつながりを見出したくなってしまいます。

男は恋人を歌手にしてデビューさせ、自身の書いた曲を歌わせます。

 

何から何まであなたがすべて

私をどうにか輝かせるため

苦しんだり悩んだりしてがんばっている

 

タイトルの『Hate tell a lie』が英文法的に正確でないことはあちこちで指摘されています。

hate to tell a lie (嘘つきを憎め)

が正しい訳でしょうか。

 

『晩春』で周吉は紀子に嘘をつきます。

般若の顔で憎まれ、「もうお決めになったのね」と繰り返し念を押されても嘘を貫き通します。

周吉の嘘は近いうちに綻びます。嘘であることを知った紀子はどう思ったのでしょう。本心ではない結婚を強いられたことに(嘘つきを憎め)となったのでしょうか。

憎悪と愛情は表裏一体、きっと嘘をついてまで自分の幸せを苦しんだり悩んだりしてがんばってくれた周吉に感謝し、一層の愛情を捧げたと信じたいです。

 

 

「hate to tell a lie」 にはもうひとつ訳し方があります。

 

嘘をついたことを残念に思う

 

娘を嫁がせるために嘘をついた周吉ですが、本心では紀子を側においておきたかったのは、林檎のくだりよりも「きっと遊びに来るんだよ」とアヤに懇願するときの切実な周吉の顔のほうが身につまされます。

映画の物語上、娘を嫁がせねばならなかった小津監督、私的な物語としては嫁がせたことを号泣するくらい残念に思っていたのかもしれません。

 

 

なんか、壺のショットが性的なものを表してる、とかで議論しているようですが、そんな下衆の勘繰りはやめましょう。

ゲスとスプリングはここに置いて夏を迎えましょうや。

 

 

殉愛―原節子と小津安二郎

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