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スクリーンを横から見てみる

映画と、映画以外の全て、の2つについて。twitterは@cathexis_impish

『レヴェナント』アカデミー主演男優賞はルベツキ

映画

  作品についてはイニャリトゥ監督ということ、たくさんアカデミー賞を獲ったというのと、ディカプリオが熊と格闘する映画っていうくらいの知識で足を運びました。

 

 「レオナルドと熊か……」なんて思いついちゃったから、心の衝撃レートがかなり低めに見積もられたせいもあって、いや、レートが高くってもバーより遥かに高く、圧倒。私の身と心はグリズリーに弄ばれたヒュー・グラスの如く、しかし心地良く振り回され、弄ばれたのでした。

 

 グラスたちが歩く森。森なのに下が土じゃなくて雪解け水が流れている映像。『ツリー・オブ・ライフ』が始まったのかと思いましたよ。あの場所を見つけてきた人もすごい。

 続くインディアンの襲撃の長回し、どこから矢が飛んで来るのか分からず恐怖。本当に矢が自分に当たるんじゃないかとハラハラしてしました。『トゥモロー・ワールド』が始まったのかと思いましたよ。MX4Dや4DX上映だったら観客の何人かはきっと矢に当たってたはず。2Dでよかった。

 

 サヴァイヴするディカプリオが、途中から熊に見えてきます。熊の毛皮を羽織り、川にバシャバシャ入って魚をムシャリ、レバーをガツガツ。生命力!

ゼロ・グラビティ』かと思いましたよ。

ディカプリオ、オスカーを獲るのも納得。

 

が、私は主演男優賞は撮影監督のエマニュエル・ルベツキにあげたい。それほどこの映画のカメラは一人の登場人物として目立っていました。

 

 「カメラと編集を観客に意識させないのが、良い映画だ」という意味の発言を、どこかの本で読んだ覚えがあります。私もそうだと信じていたのですが、『レヴェナント』はカメラがこれでもかと自己主張します。良い映画なのに、なぜ?

 

 この映画の特徴のひとつ、大自然と人間の顔。それが交互に、または同時に。どれもこれもその映像の力強さにひれ伏してしまう。

 旅行に行くと、その土地で普段見ることがない自然を目の前にして、思わずカメラでパシャリと数枚記録しますが、いっつも自分が感じたものに追いついてないなと思いませんか?

 カメラのせいか、レンズのせいか、実力不足か。その全部だと思いますが、エマニュエル・ルベツキという人は自然の圧倒的な美を体験したものを、そのまま、もしくはそれ以上のものを記録することができる人なのでしょう。

 映像がキレイなだけじゃなくって、ハラハラ・ドキドキしてしまうシーンも、腸煮えくり返って像をむき出しの表情も、一番良い切り取り方を知ってるような、そんな人なんだという気がします。

 

 

 

ここから少し撮影手法の話を書きますが、私はカメラについて素人です。

間違ってる箇所などありましたら、ご指摘ください。

 

黎明期はカメラを固定していて、

それから被写体を追いかけるパン&ティルトがあみ出され、

台車にカメラを乗せて移動撮影、クレーン撮影、と立体的な動きをするようになり、

さらにはスパイダーカム、ドローンなど縦横無尽に動き回れるように。

 

もうひとつの流れで、カメラが小さくなったことでの手持ち撮影。

これの手ブレを抑えるためにできたステディカム

90年代に『ER緊急救命室』というアメリカのドラマでステディカムが使われていました。救急医療現場という騒然とした空間で、カメラは逼迫した状況の中、次々と入れ替わる登場人物たちを臨場感を損なうことなくとらえていました。私が初めてカメラがドラマ内にいることを意識した瞬間だったと記憶しています。

手ブレが嫌でステディカムが出来たのに、もう一度手ブレ手法に戻るんですよね。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト』。POV(主観ショット)と呼ばれる、カメラを登場人物の視線とする手法が出てきます。

カメラ=登場人物の視点=観客の視点となるので、劇中にのめり込みやすくなりました。

 

 撮影手法の進化のふたつの流れ、縦横無尽に動くカメラとPOVの臨場感。これが上手く混じりあって、もう一歩劇中に踏み込ませてもらえるような、そんな体験をさせてくれるのがルベツキの特色ではないでしょうか。

 誰かの主観のようでありながら、それは神の視点、いや、蚊の視点か。あの人間にまとわりつくようなネチッコイ感じは。

 

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 途中で、ディカプリオが寒さをしのぐために馬の内蔵を取り出して、その腹の中で一夜を過ごすくだりがありますが、『馬々と人間たち』でも同じシーンがありました。アレは正しい身のしのぎ方なんでしょうね。

 もし自分が同じ状況に陥ったらやってみよう、と空調のきいた快適な映画館の座り心地のいい座席に身を預けながら心に期すのでした。

蚊はいませんでした。

 

 

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都知事選2016 東京の顔、大写しで。 

日常 駅乃みちか テレビ

新しい東京都知事小池百合子氏が就任しました。

都知事選って地方ではどの程度話題になっているのでしょう。

西日本、私の故郷の和歌山なんかでも報道されているのでしょうか。

 

今回は都知事選前に書こうと思ってたことを記します。

私の政治思想とか理念とか難しい話は皆無です。

 

---

舛添さんが辞職しましたね。

いろいろな報道を見ていると、石原慎太郎さんも政治資金の私的流用してたようですが、あまり問題にならなかったようです。私は全然知りませんでした。でも、石原さんの辞職理由はお金とは違っていたはずです。

なぜ石原さんは大目に見てもらって、舛添さんは激しく追求され続けたのか。

 

私は、顔に原因があるんじゃないかと思っています。

私見ですが、舛添さんの顔は醜いと感じます。

目鼻口のバランスなど作りのことではなく、受け取る側のイメージとしての美醜です。味がある顔立ちだね、風格があるね、色っぽいね、幸薄そうだね、などなど。

 

テレビで大写しになる舛添さんの顔、見るに耐えません。あれを見て、みんな舛添さんの顔が醜いと感じ、許せなかったんじゃないでしょうか。

石原さんの顔はアップに耐えられたから大目に見てもらえた。弟は昭和の大スターですから、お兄ちゃんも愛嬌があります。

 

顔の差が、自分で辞職したか辞めさせられたかの差になったのではないか。

猪瀬さんの顔もどこか品がなかったような。

 

そう考えると、スクリーンに大写しになっても耐えられる、あまつさえ魅入ってしまう顔をもつ俳優さんたちはすごいなと感心させられます。

あれは持って生まれたものでしょうか?

私はそうでもないと思っています。

人に見られる環境に身を置くと、鑑賞に足る顔に変わります。顔がいびつになるんですよね。いびつとは前述のように美醜のレベルではなく、大多数の一般人の顔とかけ離れているという意味です。人を惹きつけようとすると、どこか普通じゃない顔になり目立つ。それがオーラがあるとか、人混みに紛れててもすぐバレるとか、そういうものなんじゃないかと思ってます。

でも、舛添さんも猪瀬さんも、ずっと人前に立つ立場で活動していたのに、なぜ皆が背けたくなる顔になったのでしょう……。

 

 

なので今回の都知事選で誰に投票していいか迷ってる人は、候補者の顔で選んでみてはいかがでしょうか。

人前に出しても恥ずかしくない顔の人物なら、少なくとも短期間で辞任に追い込まれる事態にはならないと思います。

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というようなことを梅雨から夏にかけて考えていました。

小池百合子さんの顔、みなさんどう感じていますか?

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多くの人から好意的に受け止められるなら、東京がより良くなるのではないでしょうか。

 

 

 

私は顔だけで選ぶなら、駅乃みちかですね。

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ずっと見てられます。

でも、みちかはまだ23才だから被選挙権がない。

東京の顔になる前に、まず東京メトロの顔になってもらいたい。

もう少しがんばれ、みちか!

 

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『シン・ゴジラ』私もゴジラを視た

映画

庵野秀明ゴジラを撮るために生まれてきた

 

見終わってそう感じました。

ゴジラ、それも第一作『ゴジラ』への想いが溢れてて、押しつぶされそうでした。

大好きなゴジラと今までの庵野アニメ作品の混淆物。

やっぱりゴジラへ想い入れをたっぷり注入できる人に作らせるほうがいい、お金があるからってハリウッドに任せちゃいけない。

でも、アレはアレで良いなと思ってましたけどね。『シンゴジラ』觀るまではね。

 

もう、自分が感じたことは数多くの方がすでに書かれてるので以下略ですが、

ひとつ。

 

怪獣映画が怪獣映画たらしめている大きな要素のひとつとして、大勢の人が同じ対象を見ている、というのがあると思います。

視線の先にある、ひとつのものを大勢の人が見て、恐怖している。

しかし『シン・ゴジラ』にはそういう場面がほとんどありません。

それなのに面白い怪獣映画って新しいな、と思っていたのですが、

そんなことない。

視線はたくさんあった。

 

観客の視線です。みんなゴジラを視ていた。

 

そんなの怪獣映画に関わらず全部そうじゃないか。

その通りです。

ただ、庵野秀明は意図的に観客の視線を映画に取り込んで、映画では削ぎ落としていた、同じ対象を見つめる視線役として観客を映画に補完させようと目論んでいたんじゃないかって考えています。

東日本大震災を経験した日本人の視線を。

 

梶井基次郎の言葉を思い出しました。

視ること、それはもうなにかなのだ。

自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ

 

シン・ゴジラ』に大絶賛の声が多いのは、

初代ゴジラに魂を持っていかれた庵野秀明ゴジラに乗り移った。そして今度はみんなの視線が映画に乗り移ったからではないでしょうか。

同じものを見つめている幸福、それとひとつになる幸福。

 

だったら、持ってかれた魂を返してもらいに、もう一度視に行かないと。

 

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